6/20

誰かのことを否定できるだろうか、多くを見ずにそれでもこれは間違えていると思うのはなぜだろうか。そしてそれが他者と完全に交わらずとも誰かの思想だということに耐えることができるか。

 

昨日までの自分が間違えている可能性があるなら、今の自分が大いに間違えている可能性もある。だけど今信じるものを信じるだけだ。今思う間違えを正そうとするだけだ。その心におごりを入れないようにしている、あなたはどうなんだ。

 

youtu.be

 

sheishere.jp

「気づいた」人間をバカにする態度が何を生んだだろう。あなたも私も一緒に死んでしまおう、普通にあっていたら楽しく話せる私たちが思想で対立して二度と話せなくなるなら、ここでやめてしまいませんか。そう思うときもある。そう思いながらその態度が最適解だとも思っていないちゃんと分かっている。

昨日一昨日と親と差別についての話でもめていた。

自分の感情を認識する前に泣きながら話して怒鳴って私は何がしたいんだと思った。

何事もシンプルに伝えないと伝わらないならそれはクソだけど、わかりやすく話そうとしたとき私は「自分が生きやすい世の中になってほしい」と話していた。一歩外に出ればミソジニールッキズムを感じざるを得ない自分はとにかく生きづらい(これは「気づいてから」の話)。

 

人は人をジャッジしようとする。個人レベルで話を広げるのは悪だと前置きした上で、ジャッジするとき、人はどこかで自分を上に持ち上げている、ということは日常レベルでわかることだと思う。例えばカルチャーの全く違うロリータファッションの人を似合わないと揶揄するような、そういったレベルでもジャッジは自分に都合いいように(「自分はまともな人間である」)つけられる。

ジャッジして、誰かを下であると設定するとき、そこには得をしている人間がいる。経済大国の面構えをしている日本で、非正規雇用の割合が増えている日本で、男性であるということをステータスにしている人がどれだけいるだろう。国が失策に陥っているとき、他国に目を向けさせるというが、今は内側に外側に目がいっている。それぞれで戦ってこちらには火の粉をよこさないでくれという態度。そんなの許せたもんじゃない。

 

そうした構造がある限り、誰しもがその策略の中に押し込められている。構造がある限り私は下の人間だ、そして同時に誰かを踏みつけながら生きている。それは目に見えず、幸い膣に切り込みは入れられないけれど、下の人間としての扱いを甘んじて受けることが美徳のようにされる。

 

留学生がコロナの状況で生き抜くための支援金が成績上位者にしか配られないというニュースがあった。私は留学生じゃない。だけど、「弱者」と認識している対象に対してそういった対応をするなら、女は家庭に従事している割合が多いから支援金を減らそうという動きがあってもおかしくない。もちろん、自分に災いが降りかかるから悔しいのではなくて、明日の自分だと認識できる、当事者だと思えるから泣けるのだと思う。全ては繋がっている、分からないならあんたがおかしいよ。私(性別女)が女であるというだけで不当な扱いを受けてもいいと思っているなら関わることは二度とないです。そして自分こそ弱者だと思って他に目を向けない日本人男性も同様です。だけど信じてるよ、さようなら。